2021.02.26

アニメのススメ。 -「きみとぼく」の愛は「世界」の現実に勝てるのか。私たちが『天気の子』から得られるもの

普段何気なく見ている、数々のアニメ。幼い頃に見ていたあの作品、今流行りのこの作品も、少し見方を変えるだけで違った楽しみ方が現れてきます。

このシリーズでは、今までとは少し違ったアニメの見方、すなわち「アニメのススメ」を紹介していきます。あの作品、この作品に隠された秘密を、一緒に解き明かしていきましょう。ただ「見る」だけでは決して出会えなかった作品との素敵な出会いが待っているかもしれません。

今回は、先日地上波放送もされて大きな話題となった、新海誠監督によるアニメーション映画『天気の子』が持っているメッセージについて探っていきます。『天気の子』で提示されている価値観は、いったい私たちにどのような問題を提起しているのでしょうか。本作のキャラクターの行動原理にある危うさは、私たちが生きる現代社会の側面の写し鏡になっているのかもしれません。

©2019『天気の子』製作委員会
©2019『天気の子』製作委員会

その前に、まずは『天気の子』のあらすじを振り返ってみましょう。

離島から家出し、東京にやってきた少年・森嶋帆高。食い扶持に困り、孤独な日々を送る彼はオカルト雑誌の記事執筆を担当している小さな編集プロダクションに住み込みで働き始めます。そんなある日、彼は晴天を呼ぶ能力を持つ「晴れ女」の天野陽菜と出会いました。小学生の弟・凪と2人暮らしをしている陽菜が困窮しているのを見かねた帆高は、陽菜に彼女の「晴れ女」の能力を使ったビジネスを提案します。ビジネスが順調に成功する一方で、3人には厳しい社会の重圧が次々に訪れます。そんな最中、陽菜は自身の能力の真相や、能力を得た代償について帆高に話すのでした。

能力の代償によって消失した陽菜を救うために、罪を犯しつつ奔走する帆高。彼に委ねられたのは、陽菜との愛を選ぶか、世界を選ぶかという、一人の少年にはあまりに重すぎる究極の選択だったのです。

「世界」対「きみとぼく」。『天気の子』という作品が提示している問題とは

『天気の子』の主人公・森嶋帆高は、現代社会や既存の価値観に疑問を抱き、自らの感情や考えに基づいてまっすぐに行動する少年です。愚直なまでに純粋かつまっすぐな性格を持つ帆高。物語が転機を迎えた時、彼には東京という「世界」の存亡か、天野陽菜との愛という「きみとぼく」の関係の存亡か、どちらを選択するかという課題が課せられます。そこで帆高が決断した選択は、現代社会の価値観とはかけ離れたものでした。

帆高は、閉鎖的な離島での生活や価値観に嫌気が差して東京まで家出してきた少年です。彼はピュアでまっすぐな性格ではありますが、それは裏を返せば「自分の信じたこと以外は全て投げ捨てても良いと考えてしまう」という、非常に危険かつ独断的な性格と解釈することもできます。

彼が劇中でとる行動には、看過できないような重大な犯罪も含まれています。私たちは、自分の信条を貫くあまり罪を犯し続ける彼を一種のアウトローとして捉えることもできます。少なくとも、彼は既存社会の価値観から隔絶された「マイノリティ」であり、社会から見捨てられた存在だといえます。

では、帆高のような少年は果たしてフィクションの中にしか存在しないのでしょうか。もし現実の非行に走る少年が、彼の「信条」に基づく行動原理によって罪を犯していた場合、その行動には帆高と近いものがあるのではないでしょうか。そして、非行少年をただ恐ろしい凶悪な人間として扱う私たちは、果たして映画を観ている時に同じ目線を帆高に向けていたでしょうか。

『天気の子』は、「世界」対「きみとぼく」という対立構造を描いた物語であると同時に、現代社会に大きな問題を提起している作品だといえます。

帆高はなぜ社会に抗うのか。生きづらさを抱える少年少女の心情

では、『天気の子』が投げかけている現代社会の問題とはいったいなんなのでしょう。それは、常に少数(マイノリティ)の犠牲によって成り立ってきた社会に対する警告なのではないでしょうか。

私たちが生きている現代社会は、ある人にとっては過ごしやすく、ある人にとっては非常に窮屈で生きづらいものとなっています。帆高はおそらく後者に属する少年です。彼は離島というある意味「周囲から隔絶」された環境で育ち、その環境さえも拒絶して、最後は社会と個人、という究極の選択を決断するまでに至ります。彼の行動原理の一つには、社会に対する理不尽な生きづらさがあるのではないでしょうか。

さらに、陽菜は東京という「世界」の存続を守るために、自らの命を犠牲にしようとします。陽菜も「晴れ女」という特殊な能力を持つマイノリティであり、陽菜と帆高は2人とも社会から逸脱した存在として描かれているのです。そんな陽菜が世界を守るために自らを犠牲にする姿に、帆高は強烈な違和感を抱きます。マイノリティの犠牲によってはじめて成立する社会なんて、そんなのおかしい。帆高はそう思うのです。

筆者である私も、社会に対して生きづらさを覚えてきた一人です。そのため、作品を観ている時は、帆高や陽菜が劇中でとる行動に、かつての自分を投影してしまいました。自身を抑圧する社会に対して違和感を抱いたために、社会に抗おうとする。帆高の愚直なまでにまっすぐな姿は、窮屈な社会に生きづらさを抱える少年少女に対する、新海誠監督のエールなのかもしれません。

一歩前に飛び出してみよう。窮屈な社会との付き合い方

多数(マジョリティ)の幸福のために、少数(マイノリティ)の抑圧と犠牲が強いられる窮屈な社会。私たちが生活する社会は、そのような傾向が少なからずあるのかもしれません。本記事では、『天気の子』の「社会の窮屈な現実」に抗い、「きみとぼくの愛」を掴もうとする登場人物たちの危うい心理に迫り、現代社会がそこから何を得られるか考えていきました。

『天気の子』における帆高たちの行動そのものは、決して肯定されるべきものではないでしょう。帆高たちの行動によって傷つけられる人々がいるのも事実なのです。だからといって、帆高たちが社会に投げかける叫び声は、決して否定されるべきものではないのです。少数の人々に大きな抑圧がのしかかるのではなく、多くの人々はそれぞれ小さな苦しみを抱えて生きていく。そんな社会にも、きっと希望は訪れるのではないでしょうか。

苦しみを抱えた人々が隔絶されたまま苦しみ抜くのではなく、一歩外に出て、抑圧されてきた自らの心を開放してみる。そんな一握りの勇気が、窮屈な社会と上手な付き合い方ができる鍵になるのかもしれません。『天気の子』は、その鍵を私たちに渡してくれた架け橋にあたる作品なのかもしれませんね。

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かねひさ和哉

かねひさ和哉

2001年生まれの大学生ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱くように。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行ってきました。とにかく「動く絵」ならなんでも飛びつく筋金入りのアニメ/映画好き。 https://note.com/kane_hisa
Twitter:@kane_hisa

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